びっくりするほどに重い。そしてデカい。音もデカい。
それがバリトンサックス。クラリネットやサックスなどの縦型の楽器は、その重さを右手親指で支えるものなのだが、バリトンサックスは、その右手親指+首。首にストラップを掛け、その先を本体に引っ掛け、右手親指で支えて持つ。
「首にストラップかけて引っ張り合いしたら、負ける気がしねえ」
そんな強さを、バリトンサックスはくれた。嬉しくない。
しかし、近づけた。テナーサックスに。ただちょっとデカいだけやん?遠くから見たらテナーに見えないこともない(無理)。
とにかく。バスクラが「ぼー」ならバリトンは「ばえー」という音がする。気持ちがいい。なんだかソウルフル。とにかく、存在感のある音が気に入った。
しかしあたしは嫌な奴だった。逞しくて大きくて、嘘のつけないデカい声を出す、素敵な男を手に入れておきながら、スマートで色気のある男に惹かれ続けていたのだ。
「旦那は旦那よ」
そういう奥様方の気持ちがわかる中学生。
なので、オカンにねだることにした。
だが、ゲームを買ってもらうのとは、訳が違う。セルマーのような一流ブランドは当時40万円以上もし、とても気軽に「買ってくれ」と言えるシロモノではなかった。
小学生の頃、丸まったり伸びたりガラスに張り付いたりする緑色の玩具「アメーバ」が流行った時、オカンに
「50円やから買ってや」
と言って、オカンを連れておもちゃ屋に行くと、それは50円ではなく、500円だった。桁を間違えて覚えていたのだ。
しかしオカン、
「アンタこれ、500円やん。50円ちゃうやん。50円て言うから買おかと思ったのに500円もするんやったら買わへんで」
と、おもちゃ屋でめちゃくちゃ怒られたことがあった。そのあと、己の記憶力の無さを泣いて詫び、しぶしぶ買ってもらえたのだが、さてはて、そんなオカンに、40万円です。買ってください。などと言っては、戸籍をはずされてしまいかねない。だからと言って中途半端なブランドを買うのも嫌だ。じゃぁ、買わなければいいのだが、それも嫌だ。だったら、無いよりはまし。いっそのこと激安の通販で買ってしまおう!という結論に達したのだ。腕があれば楽器の良し悪しなんて、などと、たかだか中学生が鼻を垂らして思ったのである。
あたしは意を決し、台所で夕飯の支度をしているオカンに背後から近づき、雑誌に掲載されているテナーサックスを指差し、
「すみません、これが欲しいのですが」と、お伺いをたてたところ、一言、
「アカン。高い」
と言われてしまった。さんざんごねたが、オカンは淡々ときゅうりを切っている。まるで相手にしていない。無理なのか。そういえば、オトンも、ゴルフクラブのカタログを眺めるだけで、一向に手に入れていない。
ウームムムム。
それではこのアルトならどうか。テナーよりは3万ほど安い。
まだねばる気?と言うオカンに、あたしは言った。
「そしたらこっちの小さい方は?本当はこっちのテナーサックスってやつがええんやけど、無理やんか。そしたらこっちのやったらちょっと安いで。練習したいなぁ。練習せなアカンしなぁ。別にアルトでええかなぁ。テナーは無理やもんなぁ。」
高いセットを紹介してから安い単品を売る悪徳商法の如く、あたしはターゲットをアルトサックスに絞り、そこからまた怒涛の交渉に入る。
「アンタは欲しいものがあると、手に入れるまでしつこい」
と、姉に太鼓判を押されているあたしである。オカンもうんざりしたのか、悪徳商法が効いたのか、
「それでええの?もう、買ったらええやん。それにし」
と観念してくれたのである。
そしてアルトサックスが届いた。
ケースを開ける。
「おおおおおおお!」
まぶしいシルバー。チェッカーズの尚之もシルバーのテナーだ。同じシルバー同士。ただあたしのアルトは「シルバー色」なだけで、本物のシルバーではないのだが。
マウスピースに、かねてから用意してあったリードを付ける。そしてマウスピースをネックに付け、吹いてみる。
ぽー。
悪くない。悪くない気がする。よし。
ネックを本体に付ける。吹いてみる。
ドシラソファミレドー。
悪くない。悪くない気がする。安い音、そう言ってしまえばそんな気もする。しかし、吹いている人間が安いのだから仕方ない。
あたしは嬉しくなって、改めてそのシルバーボディを眺めた。
あれ?
キーが、足らない。
なんと、そのアルトサックスには、本来あるべきキーが、2箇所もないのである。
おいおい、「クラリネットをこわしちゃった」みたく、ドとレとミの音が出な〜い、どころか、
ソ♯とシ(低音)が、出せねえ!
夜になったら星を見よう。そうしよう。
つづく
小日向ヒカゲ
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