バスクラはいい。バスクラは素敵な楽器だ。
あたしはいつも、自分にそう言い聞かせていた。言い聞かせなければならなかったのだ。
「へぇ、吹奏楽部なんだ。で、楽器、何をやってんの?」
「バスクラリネット」
「なにそれ」
あーめんどくさ。
あたしは「なにそれ」と、興味なさそうに言う薄学の友人に、
ですからその名の通り、クラリネットのバスですよ、クラリネットの倍くらいあるデカさの、岡田真澄のような渋味のある音を出す楽器だよ、と説明せねばならず、そのクセ必死に説明したからとて報われることは稀であり、「へぇええ」と爪を見ながらつれない相槌を打たれるのがオチである。そのたび、あたしがどの楽器を答えても「あー、アレね」と言えるだけの知識を持って出直しやがれくぬやろう、と思うのである。
バスクラで、大会にも出た。アンサンブルコンテストにも出た。それなりに上手くなった。でもあたしは、幸せなのに何か満たされない団地妻のように、日々悶々としていた。そして、悶々としては、クラリネットにオーボエ、フルートにサックスと、同輩の木管楽器を手当たり次第に借りて吹いては、自分を満たしてくれる相棒を探した。
サキソフォン。やっぱりコイツか。
入部した時から、憧れ続けている楽器。サックス。木管楽器と言われてはいるが、サックスは、マウスピース以外は金管だ。だからかどうかわからないが、クラリネットよりも遥かにダイレクトに音を出すことができる。率直に言えば、かなりの圧力で息を注がなければならないクラリネットよりも、サックスのほうがラクチンなのだ。それに、男性的でかっちょいい。
あたしのサックスへの憧れは、チェッカーズ(藤井尚之〔フミヤの弟〕がテナーサックスを担当)の登場により、より一層強いものとなっていった。
2年生になったら絶対テナーサックス。絶対に。そしてあたしは奏でるのだ。あの憧れのメロディを。「あの憧れ」ってなんだ。なんでもいいのだ。メロディなら。全音符でなければ。16分なんて贅沢いわない。8分音符でいいんだよ、ベイブ。(誰や)
そしてやっと2年生。テナーサックスを担当していた3年生の先輩は卒業した。テナーサックスは、モッカ恋人募集中。よっしゃいったるでぇ。
しかし。
ここまであたしのスットコドッコイな人生を読んでくださっている素敵なアナタならおわかりだろう。
そう。全て壁。
あたしの前にはいつも、高い壁。
否、壁というほどハクのつくもんじゃない。
なんだろ。
うんこの大群かな。
山積みされた。
パート決めのミーティングが行われた日。
「はい!はーい!あたし、テナーサックスやりたいです!」
そう言って元気に手を上げたのは、他でもない、あたしの直属のバスクラの先輩その人であった。
ええええええ!?
あたしは少なからずショックだった。そんな。先輩はいつも語っていたじゃないか。
バスクラって素敵なんだよ、低音にもちゃんとお茶目な感じがあってさ、あったかくってさ、ほのぼのしててさ、あんな音の出せる低音楽器ってないよ。他の低音楽器って、全然かわいくないもんね。でもバスクラは違うよ。あたしはすごく好きなんだ。これの音が。
そんなふうに先輩は、恋人ののろけ話を聞かすように、あたしに語ったじゃないか。なんなら一生結婚もしないでバスクラ吹くんじゃねぇかコイツ。って思わせるほどだったじゃないか。
なのに。
目の前の彼女は必死だ。新しい男に恋をしたら、過去にあんなに愛した男のことなど、いとも簡単に忘れてしまえる。そんな女に見えた。
わかるなぁ、その気持ち。
だがしかし!今回はあたしもその男、いや、そのテナーサックスを狙っているのだ。最早、こんなあざとい先輩に遠慮なんぞしておれぬ。
「あの!あたしもテナーサックスがやりたいです!1年生の時、テナーサックスを希望したんですけど、ダメだったんです。だからどうしてもやりたいんです!」
般若のような顔をして、先輩は振り返った。飼い犬に手を噛まれた上に、恋焦がれた男までも、この畜生めに奪われてしまうかもしれない、という恐怖と焦りの色が、彼女を紅くした。
「あー!あー!でも小日向はぁ、それじゃぁああ、バリトンやったらいいんじゃないかなぁ??あたしがテナーでぇえええ、小日向がバリトンだったらさぁあああ、ぜーったいにぃいいい、息も合うしぃいいい、だってこひなたぁああはっぁああ、バスクラ上手かったもんんんん。ぜーったぃいいいにぃいい、バリトンもぁおおお、上達するのぉお、早いと思いまーぁあああああすうううう!」
突然、部長に媚びだす先輩。うーん、女ってこれだから恐ろしい。ちなみに「バリトン」とは、サックスの中で、ソプラノ、アルト、テナー、ときて、その次に位置するパートで、バリトンから低音楽器のくくりになる。デカさと重さといったら、バスクラの比ではない。正直、横綱級だ。
そんな先輩とあたしに、部長はゆっくりとこう言った。
「うーん。まぁ、3年生に優先権があるから、今回は森口さん(先輩)にテナーやってもらって、小日向さんは、折角の希望だから、バスクラからバリトンに転向してもらおっか。サックスには近づけるわけだし、小日向さんが3年生になったら、絶対テナーになれるポジションだよ」
悔しいが仕方ない。3年生、という妻の特権により、先輩はまんまとテナーサックスに納まり、愛人的2年生ポジションのあたしは、3年生になったらテナーサックスになれることを条件に、バスクラリネットからバリトンサックスへと、転向することになったのである。
乗り越えられない壁がない代わりに、乗り越えられるけど、その足はうんこまみれ必至なあたしの人生。あたしの選択肢。
中学生のあたしにあやまりたい。
御免よ、アンタの人生、ずーっとこんなんだよ、と。
つづく
小日向ヒカゲ
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