一ヶ月くらい前からだろうか、
僕が会社で机に座りPCの前でカチャカチャと作業をしていると、
右斜め後方から容赦ない「刺激」を感じるのだ。
今日、僕は意を決して立ち上がり、外へ出た。
僕に強烈に突き刺さるこの容赦ない「刺激」の発信地を探すコトにした。
お決まりのi-podのイヤホンを頭蓋骨へと挿入、シューズはアディダス、俺の足で光る三つのライン、今日も素晴らしい、咥えた煙草はナチュラルアメリカンスピリット、小粋なインディアンstyle,I
am.そこどけ、そこどけ俺様が通る。
いつもより自分の中の”感覚”を内側に働かし、突き刺さる「刺激」の発信地を探る、咥えた煙草の先からフワリと上がる煙の方角に突き進めば、間違いないのさ、そうさ、いつも通り。
僕が辿り着いた先、つまり僕に送られた「刺激」の送り主は、
東京汐留日本テレビ内、岡本太郎の壁画「明日の神話」。
なるほど。
壁画の前に立ち、明日の神話を睨み、僕の身体の中の細胞に送られてくる「岡本太郎」からのメッセージを感じて、震えた。
幼い頃の僕が、母親に連れられ、町の小さな「市民会館」へ行ったのを思い出した。
母親はその日、其処で披露される「演劇」を僕に魅せたかったのだ、
でも、その「舞台」は、幼心には過激すぎた、
舞台上で目まぐるしく変わる色とりどり光、腹の底にまで響く音(BGM)、
中でも特に強烈だったのが、ラストシーンの「芸術は爆発だぁ!!」という叫び声。
赤く、燃えるように赤く照らされた舞台の上で役者がそう叫んだ。
僕は恐怖に似た感情と、まったくもって理解できないStoryに苦しみ、
その記憶を忘れようとしていたのだろう。
あれが、岡本太郎の一生を表現した演劇だったのだ。
僕はずっと昔の、まだ小学生に上がる頃か、その時に。
岡本太郎の魂に出逢っていたのだ。
今までは正直、「岡本太郎」の作品を見ても何の魅力も感じなかった、
大阪に住んでいるときに見た太陽の塔も、当時の僕には理解不能のただの「オブジェ」、コレを「芸術」と呼ぶ専門家も阿呆やし、「やっぱ太郎は凄いね」なんか言ってる一般人も「岡本太郎」の名前に踊らされている哀れな人間としか思えなかった。
そんな、僕の中の「岡本太郎」が、
まさに爆発したのが今日、壁画「明日の神話」の前だった。
TAROさんの「芸術」は、他のどんな芸術家とも混じらない、特異なモノだ。
それは、芸術が作品の外側にではなく、作品の内側に「情熱」と共に込められているからというコトに気付いた、
もちろん、他の芸術家にしても作品の内側に込められた「思い」は在るのだが、岡本太郎の場合それがケタ外れ、僕にとってそれはまるで脳天に突き落とされたアンディフグのかかと落としのように、力強く、強烈で野蛮で、繊細だったのだ。
今まで、理解出来なかった岡本太郎の遺伝子を、
本当に身体の底から味わった!!その味は格別だった!!
大袈裟じゃなく、自分の中で何かが爆発したのを感じた!!
氏の作品を表面だけで捉え、
アレが芸術だ、なんて言ってる阿呆は惨めだな、
氏の「情熱や芸術性」は表面上には無い、それは全てその内側に、その裏側に、つまり見ている人の真理の底に存在するのだ。
明日の神話の前から去り、
会社へと戻るために歩きながら、僕は泣いた。
今まで解らなかった「魂の芸術」を理解出来たコトが嬉しくて。
空は夏の空だった、目の前に浮かぶタンポポのような綿毛が綺麗で、
青く浮かぶ空の海に昇り、僕の導火線に火が点いたのを感じた。
俺も、いつか爆発する。
俺よ、ありがとう。
合掌
今日のBGM
爆弾が落っこちる時 / THE BLUE HEARTS
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