苦すぎる薬が良薬なら、甘すぎる口づけは猛毒なのだろうか。
なんてイタリヤの小洒落た色男みたいなコトを考えながら無事、新しい太陽を見上げるコトが出来ました。
2006年、今年もヨロシクお願いします。
東京で迎えた初めての新年、大晦日の夜中に往来をフラついてみたり元旦に初詣したり、餅は喰わねど線香などを立ててみては自分なりに精一杯「お正月」を演出してみた。
しかし何かが違う。
昔、感じていた「正月」と何かが決定的に違う。
イチから考える。
袴だ!そうだ、袴を着ずに洋服で身を纏い遠方まで足を運び何が「初詣」か。
武士が泣くわ、そんなもので「神」や「仏」を拝もうなんて虫が良すぎる。
しかし、時代も時代、環境も環境。袴、袴と慌ててみたところで袴なんて何処にもない。コーデュロイの茶色いパンツとスイス軍の軍パンとこないだ買ったジーパンとシャレたブーツカットのEDWINだけで、袴なんて何処にも見当たらない。
袴を諦めて、「正月らしさ」を考える。考えながらテレビを付ける、無駄に笑いを取る芸人。芸人、芸人。
どこのチャンネルも芸人で、コマーシャルの「新年の挨拶」から少しだけ「正月」を感じるコトができた。
しかし、大晦日に団欒で、テレビの前「歌番組」と「殴り合い」を交互に楽しむという、「サイケで悪趣味」な「国民性」、年が明けたら明けたで、無駄にテレビに出まくる芸人の見飽きたネタで笑う日本人。相当に痛い気がする。遠目でみている外国人から「滑稽だ、滑稽だ!」と笑われてるよ。
話は逸れたがまだまだ、正月を感じるコトが出来ない僕は。悲しくなって煙草を買いに外に出て、ナチュラルアメリカンスピリットがある自販機の前で財布を出した時に気付く、
「お年玉だ!」
お年玉をもらう「権利」を卒業してどれくらいが過ぎたか、幸い、お年玉をあげる「権利」はまだ放棄出来る立場にはある。
僕が何か足りないと思っていた「東京での正月」は結局「お年玉を欲しがる」という「子供心への回帰」に過ぎなかった。
せいいちろう。
今年、25歳現役です。
お年玉を下さい。今月の末まではギリギリの「お正月期間」というコトで受付ます。どうか宜しくお願いします。
という、新年初物乞いで、第四回目の「東京ローリングライフ」終了。
よいお年に。
合掌
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