なんといったらいいのか、よくわからないけれど、
とにかく、考えもつかないようなことでさえ、
現実には起こりうるということだ。
そしてそれを乗り越えねばならない運命を背負った、
それが私という人間らしい。
なんとも哀しい現実だろう。
私は遠い昔、まだ性への目覚めもない頃に、
チチオヤからそういう行為を受けていたことがある。
もちろんしっかりと血の繋がっているオヤで、ギリではない。
当時私にはその行為の意味がまるでわかっていなかったし、
向こうはいつも決まって酒に酔っていた。
だけどもそれが恥ずべき背徳行為であることは、
漠然と感じ取っていた。
けれど私は彼が恐かったので、黙った。
私の中で、倫理とか常識などといったものは、
そのときほとんどが崩れ去ってしまった気がする。
酒のせいであって、彼のせいではないのだと、
正気ではなかったのだからしょうがないのだと、
飲まなければ悪い人じゃないんだと、
親を恨み続けるだなんて悲しいことじゃないかと。
いくら思ってみても、解決はしない。
これは、一生消えない傷なのだ。
今はもう、彼に言いたい言葉はとくにない。
責める気もない。
ただ、もう一生、普通に娘としてあの男を、
愛することは出来ないだろうってことだけは確かだ。
拒否反応みたいなものも恨みのようなものも、
時がたつに連れてどうでもよくはなった。
でもおそらく一生、腑に落ちない。
自分も子供を持ち、親になった今、
自分の親を公然の場で責めるのには気が引ける。
親になって、親へのありがたみを感じることも増えた。
だけど、それとこれとは別物だ。
最低の所業。
そしてこのことは「私」を語る上では、
良くも悪くも、避けては通れない。
だから自分が親になることも受け入れ難かった。
チチオヤという存在も、
世の中の「男」という生き物も、
身内も、つまりは人間全部を、
信じるとか愛するとか
そういったところにそもそも私はいなかったのだ。
恋はドキドキするためのゲームで、
友人は孤独と暇を埋めるためのもので、
家族はただちょっと口うるさいだけのしがらみで、
セックスは、腑に落ちないものでしかなかった。
この身体を誰かの生け贄にすること。
寂しさを埋めるための道具で手段。
小学5年から中学1年まで続いたそれにより、
私は完全に狂ってしまった。
・・・つづく
楠本 真夕 (くすもと まゆう)
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