その頃。妙に落ち着き払ったアルジとは対称的に、
アノヒトはちょうど忙しいときで、会うことすらままならず、
結婚する意思は見せていたが、行動が伴わなかった。
恋人にもなかなか別れを切り出す素振りが見られないので、
初めての妊娠でただでさえ不安な私は不信感が募り、
覚悟を決めることがついに出来なかった。
この子が出来ていなければ私はこの人と結婚しただろうか。
この子を幸せにしてあげるとは、どういうことだろう。
本当の意味で幸せにするには。産むことだけが最善なのか。
私はその点について散々悩み、考えた。・・・でも。
「アノヒトと共に、この子を必ず幸せにするんだ」とは誓えない。
こんなふうに決意も自信もないままで、「産む」だなんて、
今の私には言えないと思った。
何より私はまだ、あらゆることに未熟すぎた。
それに、アノヒトがもたもたしているうちに私はどんどん、
彼女にこのことを知らせたくないと思うようになった。
私たちがデキているとも知らないで、
彼女は私にずいぶん良くしてくれたから。
たとえ今更だとか偽善だなどと言われても、
そんな彼女を傷つけたくなかった。
それで私はアノヒトに「もういいよ」と言った。
もしかしたらこの決断がアノヒトを傷つけたかも知れないが、
初めから、欺いてきたのは私たちのほうだったのだし、
バチが当たったのだと思えば諦めもつく。
好きだったけど、父親っていうガラじゃなかったんだよ。
こうして私は手術に必要な書類のサインだけもらいに行き、
その帰り道でお揃いだった耳のピアスを外して投げ捨てた。
私のアノヒトへの気持ちもその時どうやら、
一緒に草むらに捨ててきたみたいだった。
手術の済んだ朝もアルジはちゃんと付き添ってくれた。
翌日、テレビは私の重い気持ちなどお構いなしに、
雅子さまご出産のニュースを繰り返し伝えていた。
おかげで毎年愛子さまの成長と共に、
私はあの頃の記憶を取り戻すこととなる。
ところでアノヒトと恋人だが、ふたりはその後別れてしまった。
だけど彼女は未だに時折、私に手紙を送ってくれる。
当然私とアノヒトとの間にあったことは何も知らないままだ。
余計な傷を増やさずに済んで、私は少しだけ安堵している。
・・・つづく
楠本 真夕 (くすもと まゆう)
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