Vol.1 「ご挨拶のようなもの」
こんにちは。
上海でフリーライターをやっている西谷と申します。
とりあえず何か書かせて頂くことになったんですが…、
正直今の気持ちは何と言うか初回でちょっと緊張しつつもあり、なんか小っ恥ずかしくもあり、そして周囲の雰囲気にも軽く圧倒されております。
だって、まだ直接の面識はないので分からないのですが、
文章やプロフィールなどを拝見した限り、みなさん猛烈に個性の強そうな方たちばかりというか…。
それに「フリースタイルライフ」、というネーミングも、自分がイチ読者としてパラパラ見ている分には特に気にならなかったんですが、いざ自分がその輪の中に加わると思うと、うーむ、なんだか恥ずかしいなぁ、、という気持ちが急激に芽生えてきております。
「人よ!!やっぱり自分の心に素直に生きるべし!!!」という瑞穂さんの熱いキャッチコピーの下に僕の名前や顔があると、やっぱりなんか小っ恥ずかしい感じがどうしても生まれてしまい…。なんか申し訳ないのですが…。
というのも、やっぱり多くの人はある程度大人になったら「そんなに自由を求めてばっかりもいられないよね」とか、「自由とか何とか言う前に、ちゃんとお金を稼がなきゃ」という考え方をするようになるからかもしれません。僕も結構変な人生を歩んできてしまったとはいえ、そんな風に考えているフシはあると思います。
それでも、やっぱり「自由に生きよう!」と熱っぽく語る瑞穂さんの姿は、見ていて清々しい感じもします。「自由に生きるべし!」という言葉はどこか青臭くて中学生とかが言いそうなセリフではあるんですが、たぶん誰でもちょっとはそうありたいと願っていることなのかもしれないなぁと。
しかし「君よ!自由に生きるべし!」という言葉から青臭さや小っ恥ずかしさを感じてしまうのはどうしてなんだろう。「君よ!」という呼びかけフレーズがどこかポエムっぽいというのが一つと、やはり「自由に生きる」という言葉はどこか抽象的な言い方だからかもしれないなあ、と。
それにしても、「自由に生きる」って一体どういうことなんでしょうね。とはいえ瑞穂さんには今後も「自由に生きるべし!」と熱く語って頂いて、それを僕は清々しい気分で聞いていたいと思います。
ちなみに上海あたりで暮らしていると、人々の生活水準はほとんど同じなんですが、「表現の自由」とか「政治的自由」みたいなものは日本に比べると少ないなあと実感します
まあでも、それはこっちの人にとってはほとんど当たり前みたいになっていて、経済発展している限りあまり不便は感じていないみたいです。
タクシーの運ちゃんなんかと尖閣諸島の話をすると、「まあ政治の話は政治家に任せておけばいいさ。庶民にとっちゃ関係ないことなんだから、私たちは庶民同士仲良くしましょうよ」なんてことを言われたりする。うーん、って感じです。
でも、表現の自由や政治的自由は少なくても、
「自由に生きる」という面ではなんだか中国人の方が日本人より自由に生きている感じがします。
気に入らないことがあるとバンバン転職しますしね。
という感じでなんかこんな駄文で良いのだろうかと思いつつ、とりあえず1回目を書いてみました。次回はもう少しマシだと良いのですが。
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