Vol.2 オハナシ:「やれるかやれないか」
「こわいこわいこわいこわい。こわいこわいこわい」
震えていて頼りない、消え入りそうな小さい声。
そのうちクレッシェンド、電車が近付いてくるような感じで大声に変わるんだ。
これがまた貨物列車だから、なかなか通り過ぎてくれない。
「こわいよこわい。こわいんだよ。あーもう。こわいこわいこわい」
無視。
嵐が去るのをじっと待つしかない。
どうしたの。ダイジョブだよ。
そう言ってやれば彼は救われるのか?
あたしだってこわいよ、と一緒に泣けばいいのか?
「うわあああああ!」
叫びながら飛び起きた航平と一緒に、頭からすっぽりかぶっていた布団が持っていかれて、体温が急激に部屋の寒さに奪われる。
暗闇で上体を起こしたまま頭を掻きむしっている航平は、何かにとり憑かれたように、わぁわぁと叫んでいる。
「死にたくないっ!死にたくないっ!死ぬのが怖いんだよぉおおお!」
私はただ、じっとしている。
はー、寒いなぁ。
甘い。甘いんだよ。いつも甘いんだ、このマンモーニ!
あたしだって生きてる。あたしだって叫びたいことがあるのに、いつだってコレだ。
一体あたしのフォローは誰がしてくれんだ。
「ねぇ!ねえ!オマエは怖くないの?死ぬのが怖くないの?」
「・・・怖いよ」
航平に背中を向けた、そのままの姿勢でボソリと答える。
「なんだよ、なんでそんなに落ち着いてるんだよ。ほんとは怖くなんかないんだろ?俺は怖いんだよ。怖くて怖くてしょうがないんだよ!自分がいつ死ぬかって思ったらもう怖くて怖くてさあ!」
泣いている。
泣きじゃくる彼に背を向けたまま、只々じっとしていた。
動いたら、自分までどうにかなってしまいそうだ。
今何時なんだろう。
明日も仕事早いのになぁ。
「やっぱりな。どいつもこいつもさぁ。誰も俺のことなんてわかんないんだ。わかったふりしやがって!どいつもこいつもどいつもこいつも!そしてこいつも!」
お、今指さされたか?
暫く頭を掻きむしる音と鼻をすする音、句読点のない文句を口の中でつぶやく音が聞こえていたが、突然、息が止まったかのように静かになった。
「俺は死ねるよ」
小さく言い聞かせるようにつぶやくと、航平は決心したように立ち上がり、ベランダのある窓にフラフラと寄っていく。
サッシがカラカラと音を立てる。
同時に冷凍庫を開けた時のような冷気が一気に部屋の中に入ってきて、ただでさえ冷えていた部屋に強烈なダメージを与える。
体が硬直する。
でもこれは寒いからってだけじゃない。
ベランダに出る。ゆっくりと。
航平はきっと、私に引き止めるチャンスを与えている。
飛び降りちゃいますよ。やっちゃいますよ。いいのオマエ、止めるなら今だよ。
いや、その手には乗らない。
こういう時は、ヘタに構っちゃいけないんだ。
構ってほしくていろんな暴挙に出ます、そういう時は本人が飽きるまで放っておいてくださいええええほっといていいんです、と精神科医も言ってた。
すがりついて、やめてぇえ、なんて言って泣けば、相手はつけ上がる。余計暴れる。
ベランダの囲いはコンクリートで出来ているが、手すりの部分にはアルミのバーが渡っている。
そこにシャラン、と手を置く乾いた音が聞こえる。
きっと氷のように冷たいはずだ。
そこで冷たさを感じる余裕があれば、航平は飛べない。はず。
声はもう聞こえない。
ためらっているのか、足踏みする音、寒さに息を吸い上げる音だけが時々聞こえる。
ね、冷たいでしょ。もうやめなって。
暫くして、「ごん」とベランダの囲いに足をぶつける音がしたその後、アルミ部分に足を架けたのか、「がうががぅーん」と大きな音が反響した。
反射的に、布団の中で少しだけ窓の方へ顔を上げてみたが、カーテンが閉まっているから、どうせ航平の姿は見えない。
今一体、彼はどういう態勢なのだろう。手すりの上にしゃがんでいるのだろうか?
なんだよ、本当に飛ぶつもり?
怖くなって布団をひっかぶって、毛布の端っこをぎゅっと掴んだ。
眼を閉じたいのに、眼が閉じられない。
瞬きも忘れて眼を見開いたままで、ただただ暗闇を見つめる。
なんで私は助けに行かないのだろう。
なんで、やめてよ!と可愛く引き止められないのだろう。
だいじょぶだから、って泣けないのだろう。
私が守るからさぁ!って言えないのだろう。
こういう男には、そういう女がセットで付くもんだ。
何故に私はそういう女じゃない?
そんなことより、飛んだらどうしよう。飛んだら。
あたしがこうしている間に、「どす」という音が聞こえるかもしれない。
ここは4階だ。
確実に死ねる高さではないだろうけど、死ねる確率としてはどうなんだろう。
飛んだとしても、落ちたとしても、足を骨折するくらいで済むだろうか。
逆に半身不随とかになって、死ぬより厄介なことになるんじゃないか?
そんな航平の面倒を看れるのか私は。
もし打ちどころが悪くて死んだとしたら、自分はなぜ引き止めなかったのか、何故優しく介抱してやれなかったのかと、一生後悔して生きていくことになる。
これが彼のパフォーマンスだったとしても、ここはやはり止めるべきか。
まんまと罠にハマろうとも。
静かになったと思ったら、また手すりに足を架ける音が聞こえる。その繰り返し。
わずかな音でも聞き逃したくない気持ちと、耳をふさいでしまいたい気持ちが交互に襲ってきて、結局、布団の中で眼を見開き、暗闇を睨むことしかできない。
これだけ躊躇してるんだ。
だいじょうぶ。この人は飛べない。
そのうち、降参して部屋に戻ってくるんだ。ガックリ肩を落としてさ。
そして私の胸で泣けばいい。
子供のように泣けばいい。
死ねなかったよと泣けば。
ただの発作みたいなもんだ。
明日は平和に過ごせるとい・・・
「どごがご」
「オマエは冷てぇ」
余計なものが何一つないのに、日差しだけは穏やかに届く白々とした面会室で、お互い向かい合ったままロクに目も合わさず長い沈黙を続けた後、奇跡的にと言うべきか、右足と右腕の骨折その他打ち身だけで済んだ航平が、車椅子の肘掛けに置いた腕の包帯を見つめながら言う。
「裕美子ちゃんはさぁ、俺と一緒に死にたいって言ってくれたよ。すごい俺につくしてくれんの。もう俺アイツと付き合おうかなぁ。オマエ冷てえし。」
誰それ裕美子ちゃんて初耳です。
JRに乗り、バスを乗り継いで、何時間もかけてこんな千葉の山奥の精神科病院まで来たのに、開口一番、こんなことを言われる私ってどうだろう?カワイソウってやつかなこれ。
ジャン・ジュネの「泥棒日記」が読みたいと言うから、行きに本屋で買い、退院したら桜を見に行こう、と綴った手紙も一緒に持ってきたが、本は検閲の人にカバーを外され、しおりの紐まで切られ、手紙も封を切られ、二つに折ってあった便せんもしっかり伸ばされ中身を確認された。
「決まりですからねぇ」
大事に持ってきたものを事務的に裁かれる様は、まるで自分を全否定されているようで気分が悪かったが、はるばる会いに来た恋人にまで、ある意味最もなことを告げられちゃったらもうどうでもいいなぁ私ってヤツは。
裸にされて一気に古びた感の出た「泥棒日記」を見るでもなく見つめ続け、感覚として2分くらいしてから切り出した。
「ではその優しい裕美子ちゃんという方と付き合っていってくださいよ。あたしはもう」
「疲れました!だろ?」
「・・・身を引きます」
2秒後に航平は、二人を隔てていたテーブルを、健常な方の左足で蹴飛ばした。
テーブルが「ぎご」と音をたてて10cmくらい私に迫ってきた。
まだフルパワーは出せないようだ。
「それだったら別に『疲れました』でも一緒じゃねーかよ」
「そうだね・・・。」
「そうだよ、なんだよ『身を引きます』って。そういうとこがかわいくねぇんだよ。疲れましたって言えよ。そこはフツー疲れましただろーがよ。・・・てか、疲れました、って言おうとして身を引きますに変えただろ咄嗟に」
「ふ。ふふふ」
「は。はは。このあまのじゃく。かわいくねぇ」
「ふふふふふ」
「はは。は・・・・・・死ね!」
病院の入り口から門へと続く広場の桜の木は、まだまだ寒さに震えている。
なんて地味な木だ。まるで別人。
春はあんなにチヤホヤされんのに。
戦場のメリークリスマス。
桜が舞うと、あのピアノのメロディが頭の中で鳴るんだよね。と航平が言っていた。
アナタはこの春、どこの桜でそれを鳴らすんだろうね。
死ねずにさ。
私も帰るよ。死なずにさ。数時間かけて。
中央線を。まっすぐに。
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