会社を辞めてしまった僕が まず最初にやらなければいけなかったこと。 それは死なないことだった。 死なないためには、まず飯を食わねばならない。 寒い外気から身を守る住居を維持しなくてはならない。 そのためにはどうすれば良いか。 働く。 金を稼ぐ。 これしかない。 犯罪をおこすという選択肢もあるが、その時の僕にはそれはもうない。 最終的には僕は広告業界に戻るのだが、この時は本当にせっぱつまっていたので、仕事は選べなかった。 とにかく早く金になる仕事が必要だった。 それをやりながら、次のチャンスを探す。 これしかなかった。 早く金になるといっても、日雇いの仕事はもう、体にその恐怖が染み付いてしまって手を出す気にはなれなかった。 じゃあ、どうするか。 僕は、バイク便のライダーという選択肢を選んだ。 バイクは好きだったし、バイクに乗りながら金になるなんて、まあ少しは大変なんだろうけど、きっとサラリーマンよりは楽なんだろうと勝手に推測していた。 早速、僕は応募した。 そして採用された。 短い研修が終わり早速実務に入った。 結果。 たった1日で僕の体はガタガタになった。 たった1日で冬の寒さと、同じ姿勢をとり続けるバイクライダーの勤務状態によってボロボロになった。 クラッチを握り続ける手はまったく握力がなくなるほどに疲れ果て、常に高速状態を維持するために引き起こされる緊張は頭痛を引き起こした。 給与も良いとはいえない。 単純に言うと、朝7時から夜の10時くらいまで、ずっとバイクに乗っている覚悟がないと、一人の人間が生きてゆくだけの金額は稼げない。 雨の日だって、雪の日だってだ。 搬送する条件だってそうとうヘビーなものが来る。 新人であればあるほど来る。 僕が一番、死ぬかと思ったのは、台風の前日に東京-成田空港間を全速力で往復してくれという奴だ。 僕は涙を流しながら、絶対に死なない絶対に死なないとヘルメットの中で叫びながら運転した。 毎日、毎日、本当に限界の状態で事務所に戻った。 そこには同じようにくたびれ果てている仲間が大勢いた。 仲間といってもほとんど口は聞かない。 くだらない話をする余裕などないのだ。 書類の残務処理をして、無言で皆帰ってゆく。 楽しそうにしているのは、事務所でライダーを管理している社員と、その社員に可愛がられているベテランライダーたちだけだった。 可愛がられているライダーは楽で条件の良い仕事ばかりを回される。 だから余裕がある。 その中で一人、他のライダーたちとは違う凛とした男がいた。 彼はこのバイク便の仕事を本当に大切にしているように思えた。 そんな彼に僕は興味をもった。 数日後、僕は彼と事務所のコーヒーの自動販売機前で一緒になった。 僕は話かけようかと思ってタイミングを見はからった。 彼はコーヒーを買う小銭を取り出すためライダー手袋を脱いでポケットをまさぐった。 僕は彼のむき出しになった手を見て理解した。 どうして彼がこの仕事を大切にしているのかを。 彼の手には指が3本しかなかった。 事故で欠損したのだろうか、それとも、もとよりそういう形状であったのか。 とにかくバイクは指が3本だろうと5本だろうと、走りさえすれば問題ない。 荷物を届けさえすれば、誰からも差別されない。 その彼と目があった。 彼はああ、これねという顔をしてその場を立ち去った。 僕はその風景に人間のたくましさを感じ、そして同時に人生の過酷さを思ったのを覚えている。 27才の冬のことである。