西成から戻った僕はさすがに疲れていた。
もう日雇いの仕事なんかしたくないと思った。
なんとかしてこの現状から抜け出したい、
そう思う26歳だった。
具体的にどうすれば良いか。
どうすれば再生できるのか。
茫洋とした頭で考える日が続いた。
しばらく答えは出なかったが、
この時期にはひとつだけ救いがあった。
日雇いをやめて経済的に苦しくなった僕に暖かい手を差し伸べてくれる人がいた。
その人はMさんと言って、
独立して一人で編集の仕事をしている人で僕はその人と飲み友達だった。
友達といっても20才くらい年上でおこがましいんだけれど、
とにかくこの時期はこの人が僕を事務所の留守番役みたいな形で
雇ってくれて、給料は本当に安いんだけど(なんとマックより安かった!)
家賃と光熱費だけは払えた。
これは本当にありがたかった。
命の恩人といっても良いと思う。
そしてこの救いの時期が実は僕の人生に多大なる影響を与えることとなった。
雇用条件はまさに天国だった。
基本的に留守番と電話さえとってくれれば、
あとは何をしてもいいというものだった。
それはすなわち、お金を貰いながら次の仕事を探す行為をしていいということだった。
僕はこの貴重な時間をありがたく使わせてもらった。
そして就職活動を始めた。
それと同時に事務所にある膨大な広告資料を読みふけった。
ひたすら勉強した。
前にも書いたが僕の一番最初の就職先は求人広告会社。
もともと広告の世界が好きだった。
楽しい時間だった。
就職活動の仕方は今までと変わりなかった。
求人雑誌や求人広告をかたっぱしから見て、
履歴書を送りまくった。
でも、ただ履歴書を送るというようなことはしなかった。
履歴書の他に自分のことを説明する企画書のようなものを
事務所にあった資料を見ながら、見よう見まねで作り、
それを添付して送った。
10ページくらいの企画書だった気がする。
内容は要は自分はどういうところが長所で、
こんな仕事をさせればきっとあなたの会社は儲かりますよー。
ということを延々と書いた。
でも、今だから言うがその内容のほとんどは、はったりだった。
(※すみません…その頃の採用担当の方々…)
出来ないことも沢山書いた。
とにかく現状を抜け出したい僕は必死の形相で履歴書と企画書を作った。
本で読んだことをそのまま自分の経験のように書いたりもした。
それらのことがが後で問題になったりもするのだが、
その頃はそんなこと言ってられなかった。
とにかく、会社というものに潜り込まねば死ぬと思っていた。
10社くらい履歴書を送り、確か3社くらい面接をしてもらっただろうか。
そして最終的になんと2社受かった。
一つはSPと言ってセールスプロモーション専門の広告代理店。
もう一つは同じSPなんだけど、イベント専門の広告代理店。
採用の電話を貰った時は本当に嬉しかったのを憶えている。
ああ、これでもう一度、お日様の下で働けると思うと、本当に心躍った。
そして世話になったMさんがよく言っていた言葉を思い出した。
「大丈夫、大丈夫。やる気があれば何とかなるから。」
このMさんが僕に与えた影響は大きい。
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