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 2007/5/13 
この世界を自分流のスタイルで泳いでゆく人々。

 


 LIFE.23

"永原 元 〜 伝説の魂を引き継ぐドラマーの半生 〜" 

by MIZK / 取材協力 えびす海岸本店


■プロフィール

永原元…ナガハラゲン

http://www5f.biglobe.ne.jp/~drum-gen/drum-gen.index.html

1972年1月生まれ。20歳の時、単身アフリカケニアへ渡りパーカッショングループに加入。数々の公演を行う。

帰国後、どんと(ex. Bo-Gambos)と出会い、札幌でのLiveをきっかけに交流を持つ。どんと主催の満月コンサートに参加(沖縄)。1年後同バンドメンバーだったギタリスト「平安隆/かりゆしの月」に参加・リリース。さらに1ヶ月後、ソウルフラワーユニオンにサポートメンバーとして加入。1999年にはアイルランドの大御所ドーナル・ラニーと共演。
2000年8月、フジロックフェスティバルに参加。その後、拠点を東京に移し幾多のセッション、.レコーディングワークに励む.。 セッション共演:鮎川誠、シーナ、カルメン・マキ、 森園勝敏、リアム・オ・メンリー、ハシケン 朴保、渋谷毅、本田竹広、湯川トーベンetc

2004年本田竹広(pf)「The pure」に加入、HARRY
(ex. ストリートスライダース))2ndアルバム「For no one」ドラマーとして全面参加。
  ◆◆◆◆◆


永原元 1972年1月生まれ。

… 僕はこの稀有な人物の人生を文句なく皆さんにお伝えしたい。

20歳の時、単身アフリカケニアへと渡りそこで現地のプロパーカッショングループに友人もコネも金もなく若さと勢いのみで参加し自らを鍛える。

帰国後は今や伝説のどんと(ex.Bo-Gambos)と出会い沖縄にて共に過ごし、音楽をつくり、その後はソウルフラワーユニオンに参加しフジロック参加、ストリートスライダース解散後のHARRYのソロ作にドラマーとして参加、ジャズピアノの大御所、本田竹広氏との出会いと別れなどなど枚挙にいとまがない。

詳しくは⇒のプロフィールをどうぞ。

そんな順調に活躍してきたかのように見える永原さんのバックストーリーは想像以上に波乱万丈でそして少し切なかったです… そんな永原元さんのライフストーリー、是非たくさんの人に読んでもらえれば嬉しいです。


<フリスタ編集長MIZK>




***

「こんにちは本日はよろしくお願いします。」

「よろしくお願いします。」

「早速ですが生まれはどこですか?」

「富山県です。育ちは北海道の札幌ですね。」

「子供の頃はどんな子供でしたか?」

「幼稚園くらいの頃からハチャメチャだった記憶があります。例えば"人の骨が見たい!"とか言って他人ん家の墓石倒しちゃってそこから骨出しちゃったりとか(笑)

近所でも有名だったみたいで相当警戒されていたふしがあります。自分ではあんまり憶えてないんですけど。あとは川に泳いでいた鯉のような魚を追いかけて気がつくと見知らぬ街にいたなんてこともありました。」

「音楽との出会いはどんな感じですか?」

「意外に思われるかも知れないんですが小学校4年の頃にどっぷりはまったYMOですね。今でも僕の一番の宝物は学校さぼってプレイガイドに買いにいったYMOのチケットなんです。9歳の時ですね。

そこからはニューウェーブ一辺倒。トーキングヘッズ、クラフトワーク。。。その頃はロボットみたいなものに凄く魅かれていましたね。」


「その無機質な感じの嗜好から、どうやって今の原始的なというかプリミティブな世界観に変っていたんですか?」

「中学生になってバンドとか組みだして年上のお兄ちゃんとかと音を出してからですね。ジミヘンとかそういうクラシックロックに出会ってから肉体的なものに変ってゆきましたね。でもまわりはバンドブーム全盛期。日本のビートロック全盛の中どんどん浮いてゆきましたね(笑)」





「ちょっと話しは飛ぶんですけどその後、永原さん20歳の時、単身アフリカに渡られてますよね。その時のお話しをお聞かせください。」

「ほんとはですね、直前までニューオリンズに行くつもりだったんですよね。ブラックミュージックが大好きだったので向こうの空気を吸いたいなと思って。

そのつもりで大学を休学して東京で半年バイトして貯めたお金、おそらく15万くらいかな?を握り締めて旅行代理店にまで行ってチケットの手配までお願いしてたんですよね。

そして受付の人が色々と調べている間、ボーッと店に貼ってある世界地図を見てたんですけど、そしたらですね、飛び込んできましたね、目にアフリカ大陸が(笑)アフリカ大陸のほうも骸骨みたいな顔して僕のほうを見てた(笑)



そして受付の人がニューオリンズ行きの航路を調べて戻ってきた時には、もう頭の中がアフリカ一色でその場でニューオリンズ行きを辞めてアフリカ行きにしたんです。受付の人にこの15万円でアフリカに行ける航路を探してくれって。

それでロシア経由ケニア行きというもの凄い航路のチケットを手配してもらってアフリカ行きとなりました。地球の最北まで行って一気に南下するという恐ろしい航路で(笑)。」


「その衝動性というか勢い、ほんとに凄いですよね。ここでニューオリンズに行っていたら永原さんの人生は今とは違うものになっていたかも知れないですよね。」

「うーん、確かに(笑)」

「そしてアフリカ上陸ですね。」

「はい。でもアフリカ行きの飛行機の中でも凄く運命的な出会いがあったんですよね。旅行記とかで有名な作家の田中真知さんという人がたまたま同じ飛行機に乗っていて、君、どこ行くの?って話しになったんですよ。

アフリカ旅物語 中南部編  田中 真知 (著)

で、僕が、いや、ケニア行ってタイコ叩こうと思ってるんですよ、って言ったら、田中さんに"お前正気か!?ケニアがどんなに危険なところか知っているのか?"って説教されて(笑)

確かに僕には向こうに何の知り合いもいないし、荷物だって小さなバッグとスネアドラム一個だけ、アフリカなんて行ったこともないし(笑)それで田中さんにさんざん説教されて、君をこのまま放っておいたら確実に死ぬからお願いだから一晩だけでも世話をさせてくれって話になったんですよ。

こいつホモか!?と一瞬思いましたけど(笑)で、安全なホテルとか色々と紹介してもらって僕はアフリカで死なずに済みました。(笑)」


「現地のミュージシャンとはどういう経緯で知り合ったのですか?」

「アフリカについてナイロビの街をブラブラ歩いてたんですよね。そしたらどこからともなく打楽器のアンサンブルが聞こえてくるんですよね。どこかな?と音の発信源を探したらビルの屋上だったんですよ。

現地のプロのパーカッショングループの人たちがリハーサルをやっていて、それがまた凄いいい音で感動してそれをずーっと見てたんですよね。そしたら向こうから"何?"みたいな感じで声をかけてきて、自分は日本からタイコ叩きに来たって身振り手振りで説明したんですよ。そしたら、じゃあ、ちょっとやってみろっていきなり参加させられた(笑)

そして叩いてみたらいきなり"オッケー!"みたいな感じになって、明日から一緒にステージに出ることに強制的に決められて、次の日にはメンバーになってた。(笑)

その日から朝から晩までタイコ漬け。朝起きて練習、それが終わるとステージ、そしてまた練習。そんな日々。お金もなくなって来たので現地のスラムみたいな水道もないようなところに寝泊りしてましたね。」

「本場の世界に突然入って大変じゃなかったですか?」

「もう大変なんてもんじゃないです。まず体格が違う。特に手の大きさ。彼らに比べたら僕の手なんて子供みたいだった。

その子供の手で彼らと同じパワーを要求される。もうね手が痛くて痛くてシャンプーで頭とか洗えないくらいだった。でも彼らが体さえ作れればと大丈夫という言葉を信じて頑張ってましたね。

それでじょじょにじょじょに上手くなっていって、少しづつ自分のソロパートとかも許されるようになっていった。嬉しかったですね。」


「そんな大変な思いをしたアフリカを去る時はさぞや感慨深かったんじゃないですか?」

「その頃の僕はもう完全にアフリカ人になってやろうと思っていたんで、ビザの期限とかもあったんですけど、それを無視してアフリカにい続けようと思っていたんですよね。無謀ですけど(笑)

でも人生って面白いですよね。神様が日本に一度帰れっていう意味だと勝手に思っているんですけど、ある日起きたらもの凄い足が腫れてて病気になってた。

大量の蚊に刺されたのが原因なんですけど、すぐに病院に連れていかれて、麻酔もなしで足の手術とかされて想像を絶するくらいのひどい目に会った。本当に泣きそうな気持ちになって病院の帰り道に見た夕焼けが赤くて赤くて… 僕ここで生まれてはじめて赤とんぼの唄を心に浮かべました(笑)



それで一度日本に帰ろうとなりました。エイズも怖かったし。向こうではエイズって本当に日常に潜んでるですよね。それは本当に恐ろしいことだったのを憶えてます。」



「アフリカから戻った日本での日常はいかがでした?」

「いや、まずは父親に呼び出されて大説教食らって、母親は泣いてるし、帰ってきた僕は僕でわけのわからない病気になっているし(笑)

それはもうひどい目にあいましたね。でもそれまで家族のことなんか何ひとつ考えることのなかった僕がアフリカで様々な人の世話になることで、父親とか母親のありがたみとかがわかるようになっていたのも事実でしたね。

なのでこれはもう将来のこととかちゃんと話さなければなということで話しましたね。そしてとりあえずまずは大学に復学する約束をしました。

でもアフリカの日々刺激だらけの毎日から日本に戻ってみると、学生生活というのが単調な日々で凄いストレスでしたね。何かこう何もやる気がなくなっちゃった。ただ空を見てるだけの日々(笑)

そんな時にちょうど学園祭があったんですよね。それで一念奮起して何か面白いことをやろう!と思い立って所属していた音楽サークルでお呼びしたのが"ボガンボス" Bo-Gambosという凄いバンド。



その時に"どんと"さんと出会いました。どんとさん凄いいい人で学生の僕らとステージで競演までしてくれたんです。この頃、たまっていたフラストレーションの全てをどんとさんという存在が吸い取ってくれたような不思議な気がしますね。」



※どんと…現在もなおリスペクトする人が多い天才的ミュージシャン。1月28日、ハワイ島ヒロ市内にて脳内出血のため死去。享年37歳。




「どんとさんとの出会いは永原さんにとってとても重要なものですよね。」

「そうですね。どんとさんから受取った抽象的ですけど植物の種のような、そんな大切なものを自分の中で大切に育んで、その花が咲いたら今度は僕がその種を誰かに渡さなければいけないんだなと思っています。

どんとさんは知り合ってから2年後くらいにボガンボスを解散して沖縄に行ったんですが、もうその頃の僕の中にはどんとさんに対する恋とも愛とも何とも言えない熱情が渦巻いていまして、寝てもさめてもどんとさんのことばかり考えてる。

常にまたどんとさんと何かやりたい!そうは言ってもこんな北海道にいる僕みたいなのと一緒にやってくれるわけがない。そんな煩悶の中、どんとさんが沖縄に行ってソロでやるんだという連絡が入りまして、いやあ、もうここでまたスイッチ入りましたねえ(笑)

僕もその後を追いかけて即沖縄に行ってしまったんです。そしてそのまま、どんとさんの家に2ヶ月くらい居候させてもらってた(笑)本当に世話になりました。

その後、どんとさんのソロライブも一緒にやらせてもらって、その時出会ったのがこの間も競演させてもらったギタリストの平安隆さんですね。平安さんがどんとさんのギターを弾いていました。」


5月5日(土)平安隆&永原元 LIVE 場所;恵比寿・えびす海岸


「で、沖縄滞在の後、また北海道に帰るんですよね。」

「はい、その時、まだ学生でしたからね。もの凄い留年の嵐でしたけど(笑)でも親と大学を卒業するという約束を交わしているので沖縄にい続けるわけにもいかず。

それでどんとさんとやったように俺も北海道で何かやらないとなあ!と思って僕は学生だったんですけど、その辺の仲間達がコミュニケーションをとれるようなスペースを作れないかと思いたって、店を始めたんです。飲み屋を(笑)

駅前のクリーニング屋さんの上、九坪のところを借りて手づくりで店をはじめました。学生だったんですけど。エネルギーだけはありあまっていたので見事に手づくりで完成させました。」

「経営はうまく行ってたんですか?」

「いえ、完全に赤字です。そりゃそうですよね。色々なミュージシャンを呼んで店でライブとかもやっていたんですが、何せ9坪ですからね。入れる人数に限りがある。ミュージシャンにギャラを払うだけで完全に赤字です(笑) しかも見にくるやつ全員金持ってないし(笑)金を取りようがない。

でも、さまざまな有名なミュージシャンが来てくれまして、良い出会いがたくさんありました。

そんな感じのことを大学を卒業してもやっていましたね。でも学生じゃなくなったら凄く肩の荷が重くなってきちゃって、そして自分でももっと音楽に力を入れたいしで揺れ動いていましたね。

でも、そんな時、沖縄の平安さんから悪魔のお誘いが来るんです。沖縄でレコーディングしない?って。これはまたスイッチ入りましたね。ハートに火がついてすぐに行った(笑)店もほっといて(笑)そしてそんなこんなの縁でソウルフラワーユニオンというバンドにも出会い、ドラマーとして参加することになるんですよね。でも正直、ソウルフラワーのこと全然知らなかったです(笑)

でもソウルフラワーユニオン、これがまた大変でね(笑)今までアフリカで好き勝手にタイコ叩いて来たのが、プロとしてカッチリ決められたドラムを求められる。想像以上に大変でした。譜面とか見ながらジンマシンがでるほど。で、その後すぐに新宿にあった日清パワーステーションというところでライブをやったのですが、実質、僕のプロデビューはここだった気がしますね。」



「でも、この時点で北海道のお店はどうなっているんですか?」

「驚くことに2足のわらじでやってました(笑)ソウルフラワーのライブ終わった後に北海道に電話して売り上げをチェックしたりして。でも大変すぎて分裂病になりそうでしたね。ほんとに。

おまけに赤字を埋めるためにもう一軒店(弁当屋)を出すという無謀なことまでしたりして。でもやればやるほど赤字が膨らんでゆく。26歳くらいだったと思うんですけど正直、泥沼でしたね。

お店は結局29歳くらいまでやるんですけど、

最終的には区切りもついたし、ある出来事もあってもういいかなと思ってたところで、あろうことか漏電が原因で燃えてしまったんです。

店は僕の青春でもあったのでまさに砂の城が崩れるような喪失感がありましたね。。。その火事が原因で様々な人間の表の顔と裏の顔も見たし。。。金って怖いですね。その後、音楽に集中しようと東京を本拠地にして今に至っています。

そして気づいたら僕の中に残ったのはただ音楽をやりたいという心だけでしたね。」


「東京での生活を始めていかがでしたか?」

「喪失感といいましょうか、そんなものを抱えて僕は東京に移りました。でも僕は本当に人に恵まれていると思うんですが、東京に来てからもまた運命の出会いをするんです。

それがジャズピアノの本田竹広さんですね。"人生を音楽にする"ということを教えてくれた人でした。それまでは日本人のやるジャズなんてと小馬鹿にしていた僕に本物のジャズの凄さ、素晴らしさを教えてくれました。



高円寺のジロキチというところでいつも一緒に練習させてもらっていました。そして念願だった本田さんのグループにも参加させてもらうことが出来て本当に嬉しかったですね。」



※本田竹広…1945年8月21日生まれ、岩手県宮古市出身。ジャズピアノでその名を知らない人はいない。1月12日。急逝心不全で逝去。



「本田さんとの貴重な時間は永原さんに何を感じさせましたか?」

「自分はまだまだ偽者であるということですね。本田さんと一緒に音を出していると本物と偽者との違いがハッキリとわかるんです。それくらい本田さんのエネルギーは凄かった。

本田さんは病気で幾度も倒れ二度とジャズに復帰できないと言われていながら不屈の闘志で復活してきた。その人生を見ていると自分のことがとても薄っぺらに思えたんですよね。

なんだ今まで色々あったけど自分の苦労なんかなんでもないことじゃないかって。そしてこんなところで終わってしまってたまるかと強く感じましたね。なので少しでも本田さんと一緒にいたくて空いている時間は全て本田さんにくっついていました。

そして本田さんとの最後の演奏をホームグランドである高円寺ジロキチで2006年1月にやらせてもらったんですけど、その演奏が本当に凄くて、何かをふっきたんだなと肌で感じました。

終わったあととかも本田さんにガッツリ説教されて、永原お前はいいんだからもっと一生懸命やれよって檄飛ばされたりして、だからこれからガッツリ行くんだなと思っていたんですけど… 


次の日、マネージャーさんから本田さんが亡くなったと連絡を受けて。。。

20代の最後に本田さんに出会っていなければ、おそらく僕はあそこで終わっていたんだろうなと思うことがあります。本田さんと出会ったことによって今の僕がありますね。」

「今後の活動への思いなどをお願いします。」

「一瞬一瞬に全力投球して、一音一音に思いを込めて早く一流と呼ばれるプレーヤーになりたいですね。一流のプレーヤーに。

そして僕を引っ張ってくれて影響と刺激を与えてくれ、そして先立っていってしまった恩人たちの思いを次につなげてゆきたいです。

一流というのは競演する人に安心感を与えられる存在だと思うんですよね。自分がタイコを叩くということに安心してもらえるような存在にならなくてはいけないと思っています。

あと、ロックをやりたいですね。最近はエネルギー炸裂のロックを。」





お世話になっている”えびす海岸” 店長さんと


「ちょっと話しは変わってしまうんですけど永原さんにとっての自由とは何ですか?」

「自由って難しいですよね。でもあえて自分流で言うと、煩悩と愛。煩悩することと愛することにおいて自分は自由でいたい。それを大事にしていますね。葛藤する自由というか。」

「永原さんが生きていくことで最も大切にしていることは?」

「月並みですが"愛"ですね。はい。」



最近の相棒、”AKI”と。






「今日はありがとうございました。」

 


2007-5-13 by MIZK


***

>>>インタビューを終えて

永原さんとのお話しは自分が想像していた以上に濃いものとなって正直驚いた。そしてそんな凄いお話しを聞けたことに素直に感動した。

どんとさん、本田さん、今は亡き両氏の魂が永原さんの背中越しに見える気がして、永原さんの宿命と言おうか何と言おうかその神妙なものに深い思いを馳せた数時間だった。

永原さんの生き方、特に若い頃の生き方には人生の大事なヒントが明確にあると僕は思う。それは"自分の中の衝動を信じて、心のままに生きる"ということ。そうすれば人生は転がってゆく。それの証明だと思う。

迷うな!心のままに生き続けよ!僕は永原さんの人生にそんなことを学んだ。

でも、まあ、そんなこと言っても迷うんだけどね(笑)
特に小心者のこの僕は(笑)



<フリスタ編集長MIZK>



***




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