LIFE.23 "永原 元 〜 伝説の魂を引き継ぐドラマーの半生 〜"
by MIZK / 取材協力 えびす海岸本店
永原元 1972年1月生まれ。
… 僕はこの稀有な人物の人生を文句なく皆さんにお伝えしたい。 20歳の時、単身アフリカケニアへと渡りそこで現地のプロパーカッショングループに友人もコネも金もなく若さと勢いのみで参加し自らを鍛える。 帰国後は今や伝説のどんと(ex.Bo-Gambos)と出会い沖縄にて共に過ごし、音楽をつくり、その後はソウルフラワーユニオンに参加しフジロック参加、ストリートスライダース解散後のHARRYのソロ作にドラマーとして参加、ジャズピアノの大御所、本田竹広氏との出会いと別れなどなど枚挙にいとまがない。 詳しくは⇒のプロフィールをどうぞ。 そんな順調に活躍してきたかのように見える永原さんのバックストーリーは想像以上に波乱万丈でそして少し切なかったです… そんな永原元さんのライフストーリー、是非たくさんの人に読んでもらえれば嬉しいです。 <フリスタ編集長MIZK> ***
「そんな大変な思いをしたアフリカを去る時はさぞや感慨深かったんじゃないですか?」
「いや、まずは父親に呼び出されて大説教食らって、母親は泣いてるし、帰ってきた僕は僕でわけのわからない病気になっているし(笑) それはもうひどい目にあいましたね。でもそれまで家族のことなんか何ひとつ考えることのなかった僕がアフリカで様々な人の世話になることで、父親とか母親のありがたみとかがわかるようになっていたのも事実でしたね。 なのでこれはもう将来のこととかちゃんと話さなければなということで話しましたね。そしてとりあえずまずは大学に復学する約束をしました。
でもアフリカの日々刺激だらけの毎日から日本に戻ってみると、学生生活というのが単調な日々で凄いストレスでしたね。何かこう何もやる気がなくなっちゃった。ただ空を見てるだけの日々(笑)
そんな時にちょうど学園祭があったんですよね。それで一念奮起して何か面白いことをやろう!と思い立って所属していた音楽サークルでお呼びしたのが"ボガンボス" Bo-Gambosという凄いバンド。 その時に"どんと"さんと出会いました。どんとさん凄いいい人で学生の僕らとステージで競演までしてくれたんです。この頃、たまっていたフラストレーションの全てをどんとさんという存在が吸い取ってくれたような不思議な気がしますね。」
「そうですね。どんとさんから受取った抽象的ですけど植物の種のような、そんな大切なものを自分の中で大切に育んで、その花が咲いたら今度は僕がその種を誰かに渡さなければいけないんだなと思っています。 どんとさんは知り合ってから2年後くらいにボガンボスを解散して沖縄に行ったんですが、もうその頃の僕の中にはどんとさんに対する恋とも愛とも何とも言えない熱情が渦巻いていまして、寝てもさめてもどんとさんのことばかり考えてる。 常にまたどんとさんと何かやりたい!そうは言ってもこんな北海道にいる僕みたいなのと一緒にやってくれるわけがない。そんな煩悶の中、どんとさんが沖縄に行ってソロでやるんだという連絡が入りまして、いやあ、もうここでまたスイッチ入りましたねえ(笑) 僕もその後を追いかけて即沖縄に行ってしまったんです。そしてそのまま、どんとさんの家に2ヶ月くらい居候させてもらってた(笑)本当に世話になりました。
その後、どんとさんのソロライブも一緒にやらせてもらって、その時出会ったのがこの間も競演させてもらったギタリストの平安隆さんですね。平安さんがどんとさんのギターを弾いていました。」
「いえ、完全に赤字です。そりゃそうですよね。色々なミュージシャンを呼んで店でライブとかもやっていたんですが、何せ9坪ですからね。入れる人数に限りがある。ミュージシャンにギャラを払うだけで完全に赤字です(笑) しかも見にくるやつ全員金持ってないし(笑)金を取りようがない。 でも、さまざまな有名なミュージシャンが来てくれまして、良い出会いがたくさんありました。 そんな感じのことを大学を卒業してもやっていましたね。でも学生じゃなくなったら凄く肩の荷が重くなってきちゃって、そして自分でももっと音楽に力を入れたいしで揺れ動いていましたね。 でも、そんな時、沖縄の平安さんから悪魔のお誘いが来るんです。沖縄でレコーディングしない?って。これはまたスイッチ入りましたね。ハートに火がついてすぐに行った(笑)店もほっといて(笑)そしてそんなこんなの縁でソウルフラワーユニオンというバンドにも出会い、ドラマーとして参加することになるんですよね。でも正直、ソウルフラワーのこと全然知らなかったです(笑)
でもソウルフラワーユニオン、これがまた大変でね(笑)今までアフリカで好き勝手にタイコ叩いて来たのが、プロとしてカッチリ決められたドラムを求められる。想像以上に大変でした。譜面とか見ながらジンマシンがでるほど。で、その後すぐに新宿にあった日清パワーステーションというところでライブをやったのですが、実質、僕のプロデビューはここだった気がしますね。」
「驚くことに2足のわらじでやってました(笑)ソウルフラワーのライブ終わった後に北海道に電話して売り上げをチェックしたりして。でも大変すぎて分裂病になりそうでしたね。ほんとに。 おまけに赤字を埋めるためにもう一軒店(弁当屋)を出すという無謀なことまでしたりして。でもやればやるほど赤字が膨らんでゆく。26歳くらいだったと思うんですけど正直、泥沼でしたね。
店は僕の青春でもあったのでまさに砂の城が崩れるような喪失感がありましたね。。。その火事が原因で様々な人間の表の顔と裏の顔も見たし。。。金って怖いですね。その後、音楽に集中しようと東京を本拠地にして今に至っています。 そして気づいたら僕の中に残ったのはただ音楽をやりたいという心だけでしたね。」
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>>>インタビューを終えて
永原さんとのお話しは自分が想像していた以上に濃いものとなって正直驚いた。そしてそんな凄いお話しを聞けたことに素直に感動した。 どんとさん、本田さん、今は亡き両氏の魂が永原さんの背中越しに見える気がして、永原さんの宿命と言おうか何と言おうかその神妙なものに深い思いを馳せた数時間だった。 永原さんの生き方、特に若い頃の生き方には人生の大事なヒントが明確にあると僕は思う。それは"自分の中の衝動を信じて、心のままに生きる"ということ。そうすれば人生は転がってゆく。それの証明だと思う。
迷うな!心のままに生き続けよ!僕は永原さんの人生にそんなことを学んだ。 でも、まあ、そんなこと言っても迷うんだけどね(笑) 特に小心者のこの僕は(笑)
<フリスタ編集長MIZK>
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